日本に染まり切った神父に年越しミサの後、初詣の神社で会った [日本の宗教観と神社お寺]
日本に染まりきった神父に神社で会った。
年越しミサが終わってちょっと出てきたそうだ。
一緒に帰りがてら話してたら、
「見てください、宣言通りおみくじで大吉を引いてやりました」
っておみくじを見せてくれたw
日本酒の瓶を抱えていたので訳を聞いたら、神主がくれたそうな。
「イースターで当たりのお菓子をもらったし、
クリスマスミサでコーンポタージュをもらったからお返しです。
スミスさん(仮名)のためにお祓いもしてありますよ」
と言われて、ありがたくもらってきたそうだ。
神主、神父の教会でやるクリスマスミサに参加してきたらしい。
そんで信者さんにタダで配るコンポタをもらってきたと。
コンポタは神社が新年に甘酒を配ると聞いて真似したそうだ。
「佐藤さん(仮名)が少しお暇になったら、教会で新年会をします。
まだ日時は決まってないんですけどね。
開けておきますからよろしければ皆さんで来てください」
と誘われてしまった。
日本に来て一年目は
神社仏閣から目を逸らしていたとは思えん仲の良さw
>>
神主さんと仲良さそうでなによりwww
その神父さんが、日本的宗教観に開眼するきっかけは何だったんでしょうね
>>
キリスト神社になりそうな勢いだなおい
>>
いい話だね。
何百年前もそんな感じだったのかなあと思うと和む。
>>
多神教は一神教は否定出来ないからね
アラーもエホバもたくさんあるなかの一つの神としてしか見ない
だから多神教の宗教主催者は一神教のライバルたちには非常に寛容
>>
実際教会側が、日光東照宮に東照宮を
型取ったクリスマスケーキを奉納してるしw
>>
鶴岡八幡宮で宮司と住職と神父が合同慰霊祭やったの思い出した。
東日本大震災の慰霊祭だな。
翌年は建長寺、その翌年はカトリック教会でやってた。
ある意味人のありよう(宗教ではなく)のあるべき理想型だと思ったよ。
>>
大体、神道なんて多神教どころかアニミズムに近い代物だし、
他の宗教にムチャクチャ寛容だよな。
そもそも、教典も教義もない時点で「本当に宗教なのか?」って話なんだが。
>>
神道は知らず知らず生活に溶けこんでるからなあ。
日本に長く住んでたら、染まってしまうのも頷けるw
>>
宣教師が自分とこの宗教習慣を頑なに守って生活した場合
日本人は空気読んで距離を置く=布教が捗らない
熱心にアピールしてみた場合
日本人は曖昧な態度でのらりくらり=布教が捗らない
もっとしつこく熱心にアピールしてみた場合
鬱陶しい人として日本人から警戒される=布教が捗らない
宣教師が日本の宗教観に馴染みすぎた場合
季節行事と近所付合いで多忙=布教が捗らない
>>
日本学者の山本七平も日本は宣教師泣かせと書いてたのだが、
こちらの意味合いはちょっと違う。
布教してもしなくても信者の数が変わらないそうな。
明治から平成に到るまでずっと信者数二百万で変わらず。
宣教師は自分の存在意義に関わってしまう。
オレのやっていることって意味があるのかと。
なにせ布教してもしなくても数が同じなのだから、
人生掛けた活動がとっても徒労感溢れる苦役に早変わり。
まさに穴を掘って埋めるだけのお仕事。
>>
父親は禰宜やってたけど、年賀状にキリスト教関係の人も多かったよ。
宗教家同士通じ合えるものがあるんじゃないかな。
>>
神道は生活の一部になっているからな
教典も教義もないが神道の元首である天皇(キリスト教のローマ法王と同じ)がいる
当然ながら何千年も続いているので天皇の格はローマ法王と同じで
その下に大統領・首相などである
>>
多神教な上に生活に溶け込みすぎてるから無宗教と思われがち。
誰だったか、それこそ理想の宗教形態って言ってたくらい。
和を以て尊しと為すっていう
聖徳太子の理想は未だに続いてるんだと思うと胸熱
>>
戦後に絞ればこんな感じか?
商売人がカネになりそうな宗教行事を宣伝便乗
↓
一般大衆も"よくわからないけど"単純に楽しもうぜ!ときれいに乗る
↓
日常生活が宗教行事のちゃんぽん化
↓
誰も宗教など気にしない。というかそれが普通だと思ってしまう
↓
(現在)なんであいつら宗教違うって言って争ってるんだろ…(日本人談
◆
日本に染まり切った神父その1
日本に染まり切った神父その2
年越しミサが終わってちょっと出てきたそうだ。
一緒に帰りがてら話してたら、
「見てください、宣言通りおみくじで大吉を引いてやりました」
っておみくじを見せてくれたw
日本酒の瓶を抱えていたので訳を聞いたら、神主がくれたそうな。
「イースターで当たりのお菓子をもらったし、
クリスマスミサでコーンポタージュをもらったからお返しです。
スミスさん(仮名)のためにお祓いもしてありますよ」
と言われて、ありがたくもらってきたそうだ。
神主、神父の教会でやるクリスマスミサに参加してきたらしい。
そんで信者さんにタダで配るコンポタをもらってきたと。
コンポタは神社が新年に甘酒を配ると聞いて真似したそうだ。
「佐藤さん(仮名)が少しお暇になったら、教会で新年会をします。
まだ日時は決まってないんですけどね。
開けておきますからよろしければ皆さんで来てください」
と誘われてしまった。
日本に来て一年目は
神社仏閣から目を逸らしていたとは思えん仲の良さw
>>
神主さんと仲良さそうでなによりwww
その神父さんが、日本的宗教観に開眼するきっかけは何だったんでしょうね
>>
キリスト神社になりそうな勢いだなおい
>>
いい話だね。
何百年前もそんな感じだったのかなあと思うと和む。
>>
多神教は一神教は否定出来ないからね
アラーもエホバもたくさんあるなかの一つの神としてしか見ない
だから多神教の宗教主催者は一神教のライバルたちには非常に寛容
>>
実際教会側が、日光東照宮に東照宮を
型取ったクリスマスケーキを奉納してるしw
>>
鶴岡八幡宮で宮司と住職と神父が合同慰霊祭やったの思い出した。
東日本大震災の慰霊祭だな。
翌年は建長寺、その翌年はカトリック教会でやってた。
ある意味人のありよう(宗教ではなく)のあるべき理想型だと思ったよ。
>>
大体、神道なんて多神教どころかアニミズムに近い代物だし、
他の宗教にムチャクチャ寛容だよな。
そもそも、教典も教義もない時点で「本当に宗教なのか?」って話なんだが。
>>
神道は知らず知らず生活に溶けこんでるからなあ。
日本に長く住んでたら、染まってしまうのも頷けるw
>>
宣教師が自分とこの宗教習慣を頑なに守って生活した場合
日本人は空気読んで距離を置く=布教が捗らない
熱心にアピールしてみた場合
日本人は曖昧な態度でのらりくらり=布教が捗らない
もっとしつこく熱心にアピールしてみた場合
鬱陶しい人として日本人から警戒される=布教が捗らない
宣教師が日本の宗教観に馴染みすぎた場合
季節行事と近所付合いで多忙=布教が捗らない
>>
日本学者の山本七平も日本は宣教師泣かせと書いてたのだが、
こちらの意味合いはちょっと違う。
布教してもしなくても信者の数が変わらないそうな。
明治から平成に到るまでずっと信者数二百万で変わらず。
宣教師は自分の存在意義に関わってしまう。
オレのやっていることって意味があるのかと。
なにせ布教してもしなくても数が同じなのだから、
人生掛けた活動がとっても徒労感溢れる苦役に早変わり。
まさに穴を掘って埋めるだけのお仕事。
>>
父親は禰宜やってたけど、年賀状にキリスト教関係の人も多かったよ。
宗教家同士通じ合えるものがあるんじゃないかな。
>>
神道は生活の一部になっているからな
教典も教義もないが神道の元首である天皇(キリスト教のローマ法王と同じ)がいる
当然ながら何千年も続いているので天皇の格はローマ法王と同じで
その下に大統領・首相などである
>>
多神教な上に生活に溶け込みすぎてるから無宗教と思われがち。
誰だったか、それこそ理想の宗教形態って言ってたくらい。
和を以て尊しと為すっていう
聖徳太子の理想は未だに続いてるんだと思うと胸熱
>>
戦後に絞ればこんな感じか?
商売人がカネになりそうな宗教行事を宣伝便乗
↓
一般大衆も"よくわからないけど"単純に楽しもうぜ!ときれいに乗る
↓
日常生活が宗教行事のちゃんぽん化
↓
誰も宗教など気にしない。というかそれが普通だと思ってしまう
↓
(現在)なんであいつら宗教違うって言って争ってるんだろ…(日本人談
◆
日本に染まり切った神父その1
日本に染まり切った神父その2
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